今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

当団の呼びかけ人より、月変わりで皆様にメッセージをお届けいたします。

2020年6月:「桑原さおり」

 

 

年明けから、Covid-19というウィルスが世界を包み込んでいます。
4月からは、どの国もロックダウンが進み、出入国に規制がかかり始めました。
今まだ多くの外国人が他の国に移動できず、また入ってこれない状況です。

カンボジアの学校はすぐに休校になり、みんなマスクをしての外出、アルコール消毒検温チェック、集まることを避け慎重に生活をしていました。

カンボジア在住日本人も、先が見えない中、日本で過ごすかカンボジアで過ごすかをそれぞれが決め、今この状況を過ごしています。

ここシェムリアップは観光がメインの町。
多くのカンボジア人や日本人を含む外国人が、観光業にたずさわっています。
4月から、ホテルが次々と閉まり、町にいるトゥクトゥクさんたちの姿が消え、
マッサージ、スパ、お土産屋さんもクローズ。
多くの人々が失業にいたりました。
仕事を失い、家賃が払えない、銀行にお金を返せなく困る人。
またシェムリアップでは生活ができなくなり、田舎に帰る人も多くいます。

幸いなことに、カンボジア国内での感染者は非常に少ないこともあり、今はカンボジア人が利用するお店は再開し、一時期真っ暗で人通りがなかった町にも活気が戻りつつあります。

多くの観光客でにぎわうアンコールワット遺跡群にも、いまや外国人の姿はありません。
その代わり、サイクリングしたり、家族や友だちと一緒に楽しむカンボジア人たちを多く見ます。
通常外国人で埋め尽くされる場所ですが、今はカンボジア人たちが、のんびりと楽しんでいて、これも今だけの貴重な時間に感じます。

今、まだ感染者が少ないカンボジア国内ですが、学校の休校も未だ続き、人が多く集まる場所では引き続きコロナ対策を実施していています。

日本も梅雨に入りましたが、カンボジアも雨季に入りました。
これから、コロナ対策とスコールとの共存の日々です。
今までのように、多くの方にカンボジアに来てもらい、遺跡や湖、人々の暮らし、温かく明るく純朴なカンボジア人の魅力を感じてもらえますように。

コロナの終息とともに、みなさんがこちらに来てもらえますように願う日々です。

 

 

2020年3月:「鬼一二三」

 

 

アキラ君、前回は訪日予定がキャンセルになり、涙を呑んだことでしょうが、今回は無事に訪日で

き、各地で活動紹介ができて、本当に良かったです。

現状を少しでも多くの方に知って頂くために、今回はテレビ出場の依頼も受けたとのこと、さぞ

反響が大きかったのではないでしょうか。

テレビに出ると、あちらこちらから問い合わせがあり、忙しくなることと思いますが、一人でも

多くの支援者が増え、地雷処理という大切な活動の継続ができることを強く望みます。

 

鬼一二三 (おに ひふみ)
日本とカンボジアの交流の場 いろはにほへと.com

東京都認証 特定非営利活動法人 アンコールワット日本文化交流会 [NPO法人 KH(クメール)] http://npokhmer.org
カンボジア王国 シェムリアップ州  国際日本文化学園 [一二三日本語教室&123図書館&櫻空塾空手道場&アンコール柔道場]http://www.ijci.net/

Tel : +855(012)821977

E-mail  :  onihifumi@hotmail.com

2019年12月:「川広 肇」

 

今回のテーマはちょっと固いですが、太平洋戦争の風化が進む現在の日本の思想状況です。

今年の2月の事ですが、博物館を訪れて下さったお客様に博物館の入り口に掲げている「日の丸」の話しをしました。
その時私は、「日の丸は日本の軍国主義の象徴の旗なので余り好きではありませんが、日本人がアキラ氏を応援している事を世界中の人に知って貰うのに他に有効な手段がありませんので、日の丸を掲げています」と申しました。
すると大勢の中の一人の年配の女性のお客様から、「日の丸が嫌いとは聞き捨てならない、こういう場でそうした発言をするべきでは無い」とお叱りを受けました。
また別の女性のお客様は、「今どき、そんな事を言う人は日本にはもう居ない」と仰いました。
これらの発言に大変ショックを受けました。
若い人で無く、こうした年配の方までもがこんな事を言われるのかと。
日本の戦争の風化が進んでいる証拠です。

若い人は知らないかも知れませんが、先の大戦で召集令状を受け取った人々が兵隊として戦地に赴く時、家族や親戚、友人知人、近所の人たちが寄せ書きをしてくれた「日の丸(日章旗)」を身に纏い、軍歌と日の丸の小旗に見送られて己を鼓舞しながら出征しました。
そして、多くの人がそのまま帰らぬ人となりました。
また、嘘で塗り固められた大本営発表に騙されて、銃後を守る国民は、戦果が上がったと発表される度に「日の丸行進曲」を歌いながら、提灯行列や旗行列をしました。
国民に自己犠牲を強いて国家への忠誠を誓わせ、お国の為、天皇の為に戦争で死ぬ事は名誉なのだと言い聞かせる役割を果たしたのが軍人勅諭であり、教育勅語であり、靖国神社でした。
そして、戦争を遂行する為に、民心を鼓舞して一つに纏める役割を果たしたのが、他ならぬ「日の丸(日章旗)」だったのです。

私の父親は、幸いにも外地に出る前に終戦を迎えたので、死なずに済みました。
しかし、多くの親戚や知人が亡くなっているので、「日の丸(日章旗)」が大嫌いです。
私の父だけで無く、戦争体験者の多くは「日の丸」に対して良いイメージを持っていないと思います。
私は戦後生まれなので直接体験した訳ではありませんが、やはり、「日の丸」が戦争遂行に一役も二役も買ったのだと思うと、どうしても好きにはなれません。

日本も既に戦後74年を経過し、戦争世代がどんどん少なくなっていて、直接戦争の悲惨さを知っている人はほんの一握りになってしまいました。
ですから、我々の様な戦後世代がしっかり戦争体験を引き継いで、更に次の世代に繋いで行かなければなりません。
そうしないと、戦後の74年間は平和だった日本も、この先どうなるか分かりません。
しかし、現実はどうでしょう。
最初に言いました様に、年配の人の中にも戦争の風化が進んでいて、戦争が悪だと言う事がますます若い世代に伝わりにくくなっています。
それだけで無く、戦後の民主主義を否定する様な今の政権によって、戦前を彷彿とさせる歪んだ愛国主義、排他主義、国家主義が一部の国民の中に浸透し、戦争に対する反省が薄まりつつある気がして、戦慄を覚えます。

地雷博物館の館長であるアキラ氏は、自分が少年兵として地雷を埋め、多くの人を苦しめた反省から地雷博物館を造って、世界中の人に、そしてカンボジア人に地雷の怖さ、戦争の悲惨さを訴え続けています。
カンボジアの子供たちは、まだそれ程昔の事で無いにも関わらず、余り内戦の事実を知らないので、それを危惧して正しく内戦の事実を伝えなければならないと言う使命感で博物館を運営しています。
私がカンボジアでアキラ氏の手伝いをしているのは、勿論そうしたアキラ氏の平和の為の活動に感動し、アキラ氏を応援する為ではありますが、もう一つは、アキラ氏の悲惨な戦争体験を日本の方にも知って貰って、それによって日本も二度と戦争を起こしてはならないという認識を共有して貰いたい、そうした思いからです。

私が日本人に対して、とりわけ若者に対して言いたい事は一つだけです。
「日の丸」に対して、それを嫌いになってくれとは言いませんが、戦争に対しては絶対にノーと言って欲しいのです。
戦争を推し進める側の人間は、「これは飽く迄も自衛の為の戦争だ」と言い張るでしょう。
既に歴史の決着が付いている先の大戦すらも、「あれは侵略戦争では無くて、米英中蘭に追い詰められて止む無く起こした自衛戦争だった」と言う輩までいます。
そこには戦争が悪だと言う認識がありません。
戦争が起こって苦しめられるのは必ず一般庶民であり、戦争を遂行する側および加担する側の人間は苦しむどころか巨万の富を得るのです。
ですから、どの様な理由を付けられ様と、絶対に戦争を許してはなりません。

日本を離れてカンボジアに骨を埋める覚悟の私ですが、日本が大好きな故に、日本人が二度と悲惨な戦争の惨禍に巻き込まれる事が無い事を心の底から願っています。
それ故に、日本の若者にはしっかりと社会情勢に目を向けて貰って、少しでも戦争を始める兆候が出て来たなら、毅然とした態度でそれと闘って欲しいのです。
それが、日本の若者に対する私からのお願いです。

 

「アキラ地雷博物館・日本人応援団」
代表  川広 肇

2019年9月:「岩田亮子」

 

独りバッタンバンで孤児達の自立支援を始めて11年目になりました。

その11年目にして、今年初めてデング熱にやられました ‼ と言うと二度やられた川広さん

には笑われそうですが、いや参りました。

毎年2‐3人は孤児院の子ども達がデング熱には掛かるのですが、今年はこの10年に無い

ような猛威で殆どと言っていい子ども達が掛かってしまいました。

しかも期間が長く6月から始まり今月初めまで入れ替わり立ち替わりです。

同じ環境で生活しているので当然と言えばそれまでですが、いろいろ対策を講じてみたに

も拘らず、焼け石に水でした。

熱、吐き気、身体の痛み、湿疹、めまい、等など。症状に個人差がありますが、大体こん

な様子でした。

私は健康に自信があっただけにショックでしたが、やはり体力が落ちていた時期に狙われ

た感はあります。寝不足大敵 ‼

そしてとにかく蚊に刺され難くすること ‼

そんな無理無理と誰もが思いますが、「足の裏を除菌シートで拭く!」だけでも覿面に蚊が寄

って来ないそうです。

未だプノンペンでは発症していると聞いています。是非お試しあれ ‼

皆様、お元気で笑ってお過ごしください。

 

バッタンバン州

Hope  Of  Children

岩田亮子

 

 

2019年7月:「田辺美穂子」

 

人生というものは、まったく何がおこるかわかりません。

一昨年の夏にシェムリアップを再訪し、アキラさんのステキな笑顔と、かわちゃんこと川広さんの変わらず元気で頑張っておられる姿を拝見してからの昨年のアキラさんの逮捕、アキラさん無しの日本全国講演会(ポーイ君は本当に頑張りましたね。素晴らしかった!)、アキラさん無事釈放と、我らのカワヒロさんのご結婚!!

今振り返ってみても昨年はなんと濃ゆい1年だったのでしょう。
終の住処に選ばれた大好きなカンボジアの地で新しい人生を更にスタートされたカワヒロさん、その話題の尽きないエネルギッシュな人生に心から乾杯! です。
カワヒロさん、またお会いできる日を楽しみにしております。

私は、アキラさんの地雷博物館のボランティアガイドを終えた後はインドネシアはカリマンタン島での環境保全と、動物保護、中国の沙漠で緑化活動のお手伝いをしたりといろいろとボランティアをしておりましたが、今年からは日本の保護犬の施設でお仕事をさせていただいてます。
殺処分対象の犬を引き取り、人慣れ訓練をして里親さんに譲渡するという流れなのですが、その施設で受付のお仕事をさせていただけることになったわけで、日々充実した時間を過ごしております。
日本は動物愛護の面では全くの後進国で、「動物虐待国」として知られています。
テレビをつければ動物虐待のニュースの日々。
知られていないところで行われている残虐な動物実験、無くならない悪質なペットショップやブリーダー。
知れば知るほど、その深く暗い闇に絶望するばかりなのですが、その施設のスタッフの、犬に対する愛情の深さを日々見つめていると、なんとも言えない幸せな気持ちになれるのです。
心にも体にも深い傷を負った犬達と日々真剣に向き合い、1つでも多くの命を幸せに繋げるその作業を大切に紡いでいる姿はまるで菩薩様のよう(女性スタッフが多いもので。)。
そして保護犬を家族として迎えてくださったファミリーさんの優しさ!
保護犬を引き取るということは、想像以上の苦労があり、簡単な気持ちではなかなかできないものなのです。
でも、「怖がって外を歩かないものだから、半年くらいは抱っこして散歩に出ました」とか「2か月はゲージから出て来なかったです。ゆっくり、ゆっくり仲良くなっていきました。」なんて話を、現在では見違えるほど明るく楽しそうにそして幸せそうに尻尾を振るそのワンコの頭をニコニコと撫でる里親さんのお顔もまた菩薩様なのです。
「動物虐待国」として知られる日本、でも、そんな日本もまだまだ捨てたもんじゃない。
菩薩様だって、たくさん存在しているのです。
そんなこんなで最近はなかなか昔ほどアキラさんのステキ笑顔を拝みにシェムリアップに行けなくなりましたが、また是非折を見て遊びに行きたいと思っています。
その時はカワヒロさん、奥さんを紹介してくださいね。

 

2019年5月:「古白川 真」

こんにちは。
呼びかけ人の古白川(コシラカワ)と申します。

今日、日本は平成が終わりを告げ、新しい時代「令和」が訪れました。

カンボジアはクメール正月が終わり、年越しムードから通常の生活を取り戻しつつあります。

シェムリアップの水かけ祭りの様子です

この時期東南アジアは1年間を通してもっとも暑い時期となり、歩いているだけでやけどをしてしまいそうな程の灼熱の毎日が続いています。

そんな中でもCSHDの彼らは毎日の様に地雷撤去やそのための知識を得る座学に励んでいます。
私はそんな彼らに心の底から敬意を抱いています。

先日、救護班のNarathさんから、年齢と体力の面からCSHDを勇退されたとテレビ電話がありました。
私が初めて地雷原に行った時、何処の馬の骨かわからない様な私にも一番優しく接してくれた方で、色々な記憶が蘇り、感慨深いものがありました。
退職後はどうするんですか?と聞くと、今まで十分頑張って働いたし、僕はもう歳だからゆっくりしたいなとおっしゃっていました。

このまま、事故も起きず、誰も死なず、誰も怪我をせず、彼らが安心して生活できるような国になって欲しいと切に願います。

(右から)Narathさん、若いリーダーReaksa、私

気持ちや考えばかりが先走り、なかなか彼らの力にはなれていませんが、もっともっと彼らの存在をたくさんの人が知り、応援してくれる人が増え、地雷で亡くなったり怪我をしたりする人が一刻も早くいなくなりますように。

2019年3月:「桑原さおり」

 

皆さんこんにちは。呼びかけ人の桑原さおりです。

3月に入り、カンボジアは急激に暑くなりました。

在住者もカンボジア人も、観光でいらっしゃる方も、ばてばてで休み休みじゃないと、活動できない暑さです。

今年も年が明けました。

カンボジアでは、3つの新年が迎えられます。

1月1日に、インターナショナルニューイヤー(日本のお正月ですね)があり、カンボジアにとってこの日は国の祝日のうちの1つ。1日だけ休み翌日は通常にもどります。

2月には、中華正月があり国の祝日ではないですが新年としてお祝いされます。カンボジアは古くから中国の影響を受けていますので、こちらも大切な行事ですし、中国にルーツを持つカンボジア人もたくさんいます。また中国からもたくさんの方がいらっしゃって、シェムリアップの町も大いににぎわいました。

そして、来月4月には、カンボジア人にとって一番大切なクメールニューイヤーがあります。

4月は暑季といい、乾季から雨季に変わる前。

川や湖の水がとても少なくなり、暑さがぐんぐん増して、動物や植物も、ばてばてです。

サウナに入っているような状態になり、昼は頭が働かずにぼーっとして、夕方から夜にかけて、やっと動ける状態になります。

そんな厳しい暑さが極まる中に、この新年がどかーんとやってきます。

ちなみにカンボジアでは、毎年毎に新年を迎える時間が変わります。

日本ですと午前0時に新年を迎えますが、カンボジアは占い師によって新年を迎える時間が決められ毎年変わります。

その年の女神が天から降りてきたときに新年がスタートします。その様子は毎年テレビで放送されます。

繁華街でビールを掛け合う若者たち、一緒に朝まで騒ぐ旅行者、お寺に家族で出かける人々、帰省してお家で家族で集まったりと各々のお正月を祝います。

この時期だけは、夜になればお寺がダンスクラブに様変わりする光景も見ることができます。

そしてカンボジア人のアイデンティティーでもある世界遺産アンコールワットには全国から多くの人が集まり、この日のために用意された多くの屋台や伝統舞踊のパフォーマンス、ライブセットなどで楽しみます。

カンボジアの成長と治安の安定とともに、クメールニューイヤーも、どんどん華やかに、たくさんの人が集まるようになりました。

カンボジアは、内戦があったため、海外に逃れた人がたくさんいます。

その人たちが、やっと安心して戻ってこれる国になりました。

クメールニューイヤーがにぎわうのは、成長と安全の証。

道路にたくさんの車が並び、年々その数は増えていき町が混雑しますが、その分平和になったということだと思って、私はいつも感慨深く思っています。

 

写真1

町中に星の飾りが飾られます。この中に女神が舞い降りてきます。

写真2

今年は戌年でした。来年はいのしし年(カンボジアでは豚)に変わります。

 

 

 

2019年1月:「鬼一二三」

 

色々な所で社会貢献者として表彰されても良いはずの立派な活動を地道に続けているアキラ君が捕まってしまう事件があり、折角きれいなトイレも出来た地雷博物館が閉鎖に追い込まれた時には大変心が痛みました。
このまま再開出来なかったとしたら何と勿体無い貴重な資料のたくさん詰まった博物館でしょう、と思っていましたが、無事に再開出来たとの知らせを聞き、胸をなでおろしました。

正しい事をきちんとしていても報われない事の多い発展途上国において、今回の博物館再開はこの国が良くなっていく証だと感じました。
アキラ君を信じ、アキラ君の下ですくすくと育っている孤児院の子供達も、アキラ君逮捕の際にはさぞ心細く、食事もろくに喉を通らなかった事でしょうに、本当に良かったです。

「怪我の功名」という言葉があります。
今回の事件をきっかけに、今まで地雷博物館の存在さえ知らなかった多くのカンボジア人や外国人が、再開した地雷博物館に訪れる様になり、アキラ君の活動を更に支えていってくれる事を願ってやみません。

 

 

鬼一二三 (おに ひふみ)
日本とカンボジアの交流の場 いろはにほへと.com

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カンボジア王国 シェムリアップ州  国際日本文化学園 [一二三日本語教室&123図書館&櫻空塾空手道場&アンコール柔道場]http://www.ijci.net/

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2018年11月:「川広 肇」

 

5年前から準備を進めて来た「日本全国アキラ氏平和学習講演会」が、数々の困難に直面しながらも、9月1ヶ月間を費やして何とか無事に終了致しました。

今回のメッセージでは、その事について書こうと思います。

 

この講演会、計画したのは5年前、2013年10月の日本での全国5箇所(京都、大阪、岡山、東京、福岡)に於ける講演会を終えた直後でした。

5年後にはアキラ氏の家族も一緒に連れて行って、北海道から沖縄まで日本全国で、川広肇一世一代、最初で最後、空前絶後の大大大講演会をやろうと(ハハハ、そない大げさな)。

特に、広島、長崎、沖縄は、平和を訴える上で欠かせない場所だから絶対に入れようと考えました。

家族を連れて行こうと思ったのは、一番にはアキラ氏が講演会に行った先々でPTSD(心的外傷後ストレス障害。アキラ氏は少年兵時代の悲惨な戦争体験に未だに苦しんでいます)の症状が表れ、苦しみを和らげる為に毎日カンボジアの家族に電話する姿を見て、家族が傍に居れば安心して講演会に専念出来るだろうと思った事ですが、加えて、まだ海外に行った事が無い家族を一番初めに日本に連れて行く事で、日本に対する特別の愛着を持って貰えるだろう、そしてその事が講演を引き受けてくれたアキラ氏に対する大きな恩返しになると思ったからでした。

この事に付いては多少批判も有った様ですから、また後で書きます。

 

講演の準備として、まず引き受け手探しをしなければなりません。

5年前の講演会は5つの団体、個人に引き受けて頂いて、交通費、宿泊費、講演会費用、謝礼金のぼぼ全てを負担して頂いたのですが、今回は参加者も大人数であり、日数も長いので、全てを負担して頂くとなると大変な金額になってしまう為、宿泊費と食事代の合計額300万円はクラウドファンディング(募金)で集めようと決めました。
そして、講演会引き受け手の負担額を約25万円と見積もり、引き受け手探しを始めました。
2017年7月末を期限として、あちこちに当たりを付けました。
2016年4月頃からメールでのやり取りにより少しずつ候補に当たって行きましたが、岡山、広島、長崎に付いては、私が日本に帰国していた2014年から2016年の間に直接出向いて探しに掛かりました。

有力な候補と思っていた所が次々とダメになり、その都度別の候補と折衝を重ね、また反対に思いも掛けない素晴らしい出会いが有ったりと紆余曲折を辿りながらも当初の計画通り2017年7月に15会場(恵庭市、札幌市、東京、浜松市2、甲府市、一宮市3、岐阜市1、広島市、長崎市、那覇市、岡山市2)の引き受け手が決まりました。
(その後、札幌市と広島市の引き受け手が変更になりました。また、講演会直前の2018年7月末に、京都外大から参加希望の要請を受け、最終的に16会場となりました)

2017年8月には日程調整に入り、講演実施1年前の2017年9月から会場選定作業に取り掛かって頂きました(まあ、実際に全ての会場が決まるのは、講演会実施直前の2018年7月になるのですが)。その後も、引き受け手団体、個人には、協賛団体、後援団体の募集やらチラシ作り、広報活動などに取り組んで頂きました。

私の方では、各引き受け団体、個人とメールでのやり取りで各種調整をし、2018年7月に日本に渡る上で最大の難仕事であるアキラ氏他6名のビザ申請手続きをしました。
ビザも無事下り、後は9月2日の出発を待つだけとなった8月27日、驚天動地の大事件が勃発しました。

 

「アキラ地雷博物館」の奥にある倉庫で爆発事故が起き、アキラ氏が逮捕されて日本に行けなくなったのです。
爆発した倉庫の中に、無届けの地雷や爆弾、銃器類があって、その地雷が爆発したと言う理由で。それらは、アキラ氏が5年前亡くなった元スタッフから譲り受け、地雷の信管を抜いて安全処理し、何れは博物館で展示しようと思いながらうっかり届け出を忘れ、倉庫に仕舞い込んだままになっていたものでした。
3ヶ月前に倉庫の鍵が見つかり、5年ぶりに中を開けて掃除をし、防虫スプレーを撒いてそのスプレー缶をそのまま置いていたのが暑さで破裂して、その火が銃弾に引火し爆発となった様です。
警察発表では地雷が爆発したと言う事になっていましたが、本当に地雷が爆発したならもっと大きな被害が出ていたでしょうが、実際は小さな倉庫1つが焼けただけであり、勿論人的被害も有りませんでした。
警察は、アキラ氏が反政府活動をする目的でそれらの地雷等を隠し持っていたと見て、アキラ氏他2名を逮捕するに及んだのです。
アキラ氏を、何としても政府に刃向かう重罪人に仕立て上げたかったのでしょう。
9月28日に現場検証と関係者への尋問が行われ、その日の内に、アキラ氏と責任者2人(ヨンさん、ソクンティア)の計3人が警察署の留置場に収容され、30日には裁判が行われて有罪が確定し刑務所に収監されてしまいました。

私も頭が真っ白になりました、一体この先どうなるんだろうと。

毎日、他の博物館関係者と共に対応に追われ、講演会の準備など全く手に付かない日々となりました。
しかし、今更講演会を取り止めにする訳には行きません。
5年間に渡って準備をして来た自分の苦労が水の泡になると言うだけで無く、関わってくれた大勢の方々に大変な迷惑を掛けてしまう、それだけは何としても避けなければならないと思ったからです。

講演会の目的は、アキラ氏自らが少年兵として体験したカンボジア内戦の惨状を知って頂く事は勿論ですが、それに留まらず、そこから日本での73年前の戦争に思いを馳せ、戦争の悲惨さ、平和の尊さについて改めて考える機会としたい、反戦の思いを強く持って頂く場としたい、そうした思いの講演会です。
アキラ氏から直接話しは聞けなくとも、私がカンボジアの内戦の話をし、一緒に行くポーイ(子供の時地雷被害に遭い片目と片腕を失い、アキラ氏に育てられ、現在アキラ氏の下で地雷撤去活動を行っている青年)が自分の体験談を話す事で、講演会の目的は100%では無いにしてもかなりの割合で達成出来ると考えました。

そこで、講演会引き受け手の団体、個人に連絡をし、事情を説明しました。
その中で、4人の方から講演会開催に付いて見直したいとの返事を頂きましたが、他の方はアキラ氏抜きでも予定通り実施して欲しいとの事でした。

後はアキラ氏の家族が一緒に行くかどうかです。
当然、アキラ氏の奥さんと子供たち3人は、アキラ氏逮捕を受けて憔悴しきっていました。
ですから、初めはもう日本に行きたくないと言っていました。
私も、無理強いしてはダメだと思い、本人達の意志に任せることにしましたが、最後に刑務所のアキラ氏が面会に来た奥さんに対して日本に行く様に勧めてくれたお陰で、アキラ氏を除く家族4人が一緒に日本に行ってくれる事が決まりました。出発日直前の8月31日の事です。
その連絡を受けた時本当に嬉しかったですが、同時に、1ヶ月間もアキラ氏と会えない状態が続いて、家族は精神的に保つかとの不安がよぎったのも事実です。
(しかし、それは杞憂に終わりました。家族は終始明るく元気で、行く先々で人気者となってくれました。我々大人に気を遣ってくれ、子供達は悲しい表情など一度も見せませんでした。)

いよいよ9月2日のシェムリアップ国際空港18時5分発ベトナム航空便で関空に向けて出発となります。
この時点で講演会開催中止を決めていたのが、恵庭市、東京、一宮市、沖縄の2箇所の計5会場でしたが、あと2会場が現在検討中、12会場が開催決定でした。
(最終的には検討中だった2会場も開催を決定し、結局5会場が中止、14会場が開催となりました。)

台風21号の接近が気になりましたが、何とか無事に9月3日の早朝、関空に降り立ちました。(関空は翌日の4日から台風被害により20日まで閉鎖となります。ラッキー・・・と、この時は思いました)この後、講演会で最初から最後まで活動を共にし、終始支えて頂いた愛知県一宮市のNPO法人「ふれあいサロンさん・さんガーデン」の速水さんが迎えに来てくれていて、少し遅れて井浪理事長と他のスタッフ2名が合流し、午後の便で一緒に北海道に渡りました。

4日開催予定だった恵庭市は中止になっていたので、5日の札幌市が初っ端の講演会となりました。小さなトラブルは有りましたが何とか無難に終え、ホテルに戻り、明日は東京に向けて出発と思いながら床に着き、深い眠りに陥っていた深夜3時過ぎ、突然の大揺れに相部屋のポーイとオル君、私の3人が一斉に目を覚ましました。
地震です、それもかなり大きな・・・(後に北海道胆振東部地震と名付けられた震度7の大地震で、札幌市は震度5強でした)。
他の部屋に居たアキラ氏の家族、「さんさんガーデン」の皆さん9名も慌てて廊下に飛び出し対応を協議、取り敢えず朝まで部屋に留まり、朝になったら10階の部屋から1階ロビーに降りようと言う事になりました。
カンボジアでは地震は皆無ですから、アキラ氏の家族、ポーイ、オル君にとっては忘れ難い恐怖体験となってしまいました。

そしてその後2日間、北海道に足止め食いましたが、8日の朝フェリーで岩手県宮古市に入港、そしてレンタカーを借りて愛知県一宮市の「さんさんガーデン」さんの運営する障害者・老人施設へ移動し、夜の10時過ぎに到着後やっとまともな食事にありつき、そこで宿泊。
(最初、8日に開催予定だった東京での講演会は、アキラ氏逮捕を受けて中止と決まっていたので、これは却ってラッキーでした。もし、開催予定だったら、当日中止となり、大変な混乱を生じたでしょうから。)

こうした尋常ならざる船出となりましたが、その後の講演会は比較的順調に推移しました。10日に「浜松日体中・高校」、11日に「浜松・万年橋パークビル」、12日に「山梨県立文学館研修室」、13日に「一宮市立北方中学校」、14日に「岐阜市立柳津小学校と「一宮市立貴船小学校」、17日に「京都外国語大学」、18日に「広島市文化交流会館会議室」、21日に「長崎市ブリックホール国際会議場」、27日に「岡山市立石井中学校」と「おかやま西川原プラザ大会議室」、28日に「岡山市立操南中学校」と「環境学習センター・アスエコ」でのNPO「ICOI」による懇話会と、13会場での講演会・懇話会を無事に終える事が出来ました。
講演会を引き受けて下さった皆さん(「さんさんガーデン」さんや、実行委員を買って出て下さった方々)が集客に奔走して下さったお蔭で、アキラ氏不在となったにも関わらず思っていた以上のお客様が来場して下さり、私の願いである「反戦平和の誓い」を共有する事が出来ました。
協力して下さった方々には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

アキラ氏の家族も積極的にお客様と触れ合ってくれ、特に小学校、中学校では生徒達との間で国際交流の輪を広げ、絆を深めてくれました。
普段おちゃらけのポーイも、講演会では自分の地雷被害体験と現在の地雷撤去活動の話を真剣に語り、新聞にも取り上げられて一躍アキラ氏に替わるカンボジアのニューヒーローとなってくれました。
オル君も、アキラ氏の草稿原稿を日本語で読み上げて、アキラ氏に代わって悲惨なカンボジア内戦の歴史とアキラ氏の活動内容を伝えてくれました。
彼等が十分、アキラ氏の代役を務めてくれました。
私も、ささやかでは有りますが、悲惨なカンボジアの内戦の話、日本で起きた戦争の話をさせて頂きました。

彼等には、より日本を好きになって貰う為、合間合間には観光にも連れて行きました。
北海道では「旭山動物園」、浜松では「浜松城」「スズキ歴史館」、一宮では「138タワーパーク」、京都では「金閣寺」、広島では「広島平和記念資料館」「平和公園」「原爆ドーム」、長崎では「長崎原爆資料館」「平和祈念像」「ハウステンボス」、沖縄では「ひめゆり平和祈念資料館」「首里城公園」「美ら海水族館」、そして海釣りと海水浴、などなど。
また、日本での滞在期間中、誰一人怪我もせず病気にもならずに過ごす事が出来ました。

こうして、初っ端に出鼻を挫かれながらも、後は順調に進み、閉鎖になっていた関空も20日には業務再開となって皆で一安心し、後は30日に無事に帰るのを待つだけとなっていた矢先の29日、大型台風24号の接近で30日の飛行機が飛べなくなると言う最後の最後での大アクシデントに見舞われます。
結局、予定より一日遅れの11月1日に帰国となるのですが、空港には20日に仮釈放されたアキラ氏が迎えに来てくれていました。

アキラ氏は、結局3週間超刑務所に収監された事になります。
ただ、刑務所に居た間も、家族とは警察官の電話を借りて頻繁に話していましたし、20日以降は自分のスマホで毎日ライン通話していましたので、家族もアキラ氏本人も互いの状況を把握していて、比較的平穏な日々を過ごした様です。

アキラ氏の逮捕、大地震、巨大台風と、人生でそうそう経験する事が無いであろう大惨事を1ヶ月の間に3つも経験しましたが、何はともあれ、我が人生最大のイベントを成功裡の内に終える事が出来て感無量です。
開催に向けて御協力頂いた方々、クラウドファンディングに御協力頂いた方々、会場に足を運んで下さった方々、また、会場には来れなかったけど応援して下さった方々全ての方々に心よりお礼申し上げます。本当に、有難うございました。

 

 

最後になりましたが、今回の講演会にアキラ氏の家族を同行させた事に対して、一部の方から批判の声が挙がっていたと信頼出来る方からお聞きしましたので、一応釈明させて頂きます。
その声とは、「アキラ氏が逮捕されて行けなくなったのに、何で高い金を遣って家族を連れて行って、しかも観光までさせるのか、その金は講演会を引き受けた人や募金をした人の金だろ」といったものです。
私の耳には直接届いてはいないのですが、講演会が終わってカンボジアに戻ってから、ある私の信頼する人にお会いした時、そう言う声が少なからず有ったとお聞きし、大変驚きました。
もし、その声が、講演会を引き受けてくれた方やクラウドファンディングで募金協力して下さった方の声でしたら、私の説明不足と反省しています。
ただ、そうした声は私には直接入って来ていませんので、恐らくは上記協力者以外の方の声とは思いますが。
家族を連れて行きましたのは既に書きました通りの理由ですが、この事を十分説明していなかったと反省しています。
家族を連れて行くのは、私が今回の講演会を構想した5年前からの計画であり、しかも重要な要素でした。
仮に家族が行かずに私とポーイ、オル君の3人だけで行っていたなら、テンションも上がらず講演会も形だけのものとなってしまい、達成感も味わえなかった事でしょう。
ですから、私としては家族が一緒に行ってくれた事が、今回の講演会が成功裡に終わった大きな要因だったと思っています。
この事を最後にお伝えして、今回の「呼び掛け人メッセージ」とさせて頂きます。

長ったらしい文章を、最後までお読み頂き有難うございました。

「アキラ地雷博物館・日本人応援団」
代表  川広 肇

2018年8月1日:「岩田亮子」

 

5年振りに行われたカンボジアの国政選挙は、昨年暮れ、政府与党CPP(カンボジア人民党)が最大

野党CNRP(カンボジア救国党)を解党すると言う前代未聞の報復に始まりました。

かくして7月29日、事実上不戦勝で行われたこの選挙を「与党の圧勝」と書き立てるメディア。

どこが公正な選挙でしょうか。

投票率80%超えは、当局による制裁を恐れただけとも囁かれ、選挙結果の正当性を示す数字とは

到底思えません。

一方無効票が前回の5倍以上に膨れ上がったという事実。

この物言わぬ抵抗が示す数字の意味を重く受け止めたいと思います。

過去の政治の過ちを時代に翻弄された一市民(アキラー氏)が償い続ける一方で、相変わらず同じ

過ち、暴挙を繰り返す政権与党。

私が自立支援を行っている「Hope Of Children」の名前は、子ども達に希望を持って生きて欲しい

と言う願いを込めて名付けられました。

愛する子ども達の未来に翳りや暗雲が立ち込めることのないよう、祈るばかりです。

全てが徒労に終わらぬために。

 

バッタンバン
Hope Of Children
自立支援ボランティア
岩田亮子