喪失と希望の地、カンボジア
19世紀中頃、圧倒的な軍事力を持ってインドシナに進出してきた大国フランス。当時ポスト・アンコール期であったカンボジアは、隣国のシャム(タイ)とベトナムに宗主権を奪われ、両国の二重属国という極めて悲惨な状況にあった。その状態から脱しようと、時の王、アン・ドゥオン王はナポレオン三世に保護を要請。その時はシャムに漏れて叶わなかったが、次代のノロドム王の時代である1863年、ついに保護国となった。15世紀にアンコール王朝が途絶えてからは、常に隣国からの攻撃にさらされてきたカンボジア。フランスの支配下に入ることは、国家を守るための苦渋の選択でもあった。
仏領カンボジア 1863年~1953年
1863年、フランスの保護国となったカンボジア。当初はシャム、ベトナムの支配から逃れたと安堵していたものの、フランスは次第にカンボジアに対する植民地政策を強化していった。そして1884年のフランス・カンボジア協約で、カンボジアの主権を全面的に抹消し、カンボジアは仏領インドシナの一部となる。王室は保たれていたものの、伝統的な秩序や地方行政組織は破壊された。また、役人にベトナム人を登用する間接統治法がとられ、次第にフランスへの反感が高まっていった。
そんな中、1941年、わずか18歳で王位についたノロドム・シハヌーク国王は、国際世論に訴えて積極的に独立運動を展開していった。そして1949年に限定的独立、1953年に完全独立を勝ち取った。
カンボジア王国 1953年~1970年
カンボジアが独立国となってから、シハヌークは王位を父に譲り、政党「社会主義人民共同体」を結成して自ら総裁に就任。本格的な政治活動を開始した。総選挙では全議席を制すという圧倒的支持を獲得して「シハヌーク時代」が幕を開けた。1960年代に入るとベトナム戦争が始まったが、中立外交を展開していたカンボジアは食糧も豊富で比較的平和であった。
しかし、1965年、戦火が激しくなる中、カンボジアは北ベトナムを支持し、南ベトナムを支援するアメリカと国交断絶。68年には米軍の空爆を受けるようになり国内状況が緊迫した。また政界も右派と左派の対立が絶えず、混乱。そんな中、1970年、シハヌーク外遊中に親米派のロン・ノル首相が軍事クーデターを起こしてシハヌークを追放。共和制の「クメール共和国」を樹立した。
クメール共和国 1970年~1975年
1970年10月、新政府を樹立したロン・ノルだが、農民を中心とする国民の多くはシハヌークを支持しており、各地で反政府デモが行われた。ロン・ノル政権はアメリカを後ろ盾とした親米政権であり、ベトナム戦争中のアメリカ軍にカンボジア領域内の侵攻と爆撃を許可した。その結果、農村部を中心に激しい空爆にさらされ、国民の反政府感情はいっそう高まった。そんな中、反ロン・ノル勢力で共産主義のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)は次第に勢力を伸ばしていった。
一方、北京に亡命していたシハヌークは亡命政府「カンプチア王国民族連合政府」を立てる。国外より国民へ政権打倒を訴え、クメール・ルージュを支持。そして1975年4月、ついにクメール・ルージュを中心とした「カンプチア民族統一戦線」がプノンペンに入城して、ロン・ノル政権は倒れた。
民主カンプチア 1975年~1979年
圧倒的な支持を得て政権に就いたクメール・ルージュだが、すぐにプノンペン市民は一人残らず農村部の集団キャンプへ強制移住させられ、ポルポトによる「恐怖政治」が始まった。
クメール・ルージュは極端な毛沢東主義に心酔した共産主義集団であり、農業による自給自足、宗教の禁止、貨幣の廃止を謳い、中国を除いた外国との国交も絶った。都市住民や旧支配階層、知識階級者は身分・財産を剥奪され、多くの罪なき人が虐殺された。また、全国で灌漑水路が建設されたが、無計画・無設計で行われたため、農業インフラが機能しなくなり深刻な食糧危機も招いた。餓死や病死も合わせると、死者は3年半の間に100万人以上とも言われている。
カンプチア人民共和国/カンボジア国
1979年~1989年/1989年~1993年
ポル・ポト政権は次第に内部抗争で分裂していき、一部の党幹部はベトナムに逃げて「カンプチア救国民族統一戦線」を結成した。そして1979年1月、ベトナム軍を率いてプノンペンに侵攻、ポル・ポト軍をタイ国境へ追いやった。そしてヘン・サムリンを中心とした親ベトナムの社会主義国家「カンプチア人民共和国」が樹立された。一方、ヘン・サムリン政権に対して、クメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派は三派連合政府を樹立し、激しい内戦が繰り広げられた。しかし1989年にはベトナム軍が撤退し「カンボジア国」と国家名を改称。次第に和平ムードが高まっていき、1991年には「パリ和平協定」が調印された。
※カンボジア内戦と東西冷戦
約20年に渡るカンボジア内戦を理解するには、当時の世界情勢を無視することができない。特に「東西冷戦」の影響は強く、内戦の終結と時期を同じくする。
1970年、「西側」についたロン・ノル政権だが、ベトナム戦争終結に伴い米軍が撤退、親中国のクメール・ルージュが政権につく。1979年ベトナム軍により解放されるが、中国はこれを不服として中越戦争を始める。国内では親ベトナム政権対三派による内戦が展開されていたが、これはベトナム・ソ連対中国・アメリカという構図でもあった。これが緩和したのが1980年代後半の冷戦崩壊。カンボジアでは和平案が採択され、内戦が終結した。
UNTAC時代 1992年~1993年
パリ和平協定をもって内戦が終結したカンボジアでは、国連主導による国家再建が始動し、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が設立され、代表には明石康氏が就いた。PKO(国連平和維持活動)として日本の自衛隊も派遣された。1993年にはUNTACの監視の下、国民総選挙が行われ、新憲法が公布、翌年にはノロドム・シハヌークが国王に復位して、「新生」カンボジア王国が再建された。
カンボジア王国 1993年~現在
総選挙の結果を受けて、フンシンペック党とカンボジア人民党の連立政権が成立し、ラナリットとフン・センの二重首相体制が布かれた。しかし、両党は次第に対立するようになり、1998年の第二回総選挙では、カンボジア人民党が第一政党となり、フン・セン首相の単独体制となった。また、王国発足後もしばらくクメール・ルージュの残党による戦闘が続いていたが、同年ポル・ポトが死亡し、ようやくカンボジアに平和が訪れた。また、国王シハヌークは2004年に息子のノロドム・シハモニ王子に王位を譲り、同年10月29日に戴冠式が行われた。
「クロマーマガジン20号より転載」
クロマーマガジン http://krorma.com
スケッチトラベルカンボジア http://www.sketch-travel.com/cambodia/
2013年3月に撮影され、ロサンゼルスUTBにて毎週放映中の日本語の旅番組「GO WEST」の中のカンボジアへの旅「アンコールワットを訪ねて」4回シリーズにて11月に放映されました映像です。パート4に博物館もチラッと出て来ますので、是非御覧下さい。
パート1
パート2
パート3
パート4