2023年6月:「川広 肇」

 


順番が来たので2月に書こうと思っていた「呼び掛け人メッセージ」ですが、4ヶ月も遅れて今頃になってしまいました事を先ずはお詫び致します。

さて、今回の「呼び掛け人メッセージ」は、メッセージと言うよりは「私の反省文」です。
 実は私は、今年の2月4日に大きなバイクの自損事故を起こしてしまい、精神的にも肉体的にもかなりのダメージを受けていたのです。
(ナ~ンチャッテ、でえれえ(orぼっけえ・岡山弁)誇張しています。「呼び掛け人メッセージ」を書くのが遅れてしまった事に対する苦しい言い訳です。)

2020年3月に、コロナの所為で博物館が閉鎖されてしまった事は皆様御存知かと思います。2021年12月には一応再開を許されたのですが、コロナはまだまだ収まっていない為客はほとんど来ないので、開店休業状態が暫く続きました。
2022年の4月頃から、カンボジアのコロナが少し落ち着いて来たのに合わせて外国人客がチラホラ来る様になりましたが、日本人客は未だほとんど来ません。
日本人客が来ないので私の出番は無く、従ってコロナ以降の3年間で私が博物館に出向いたのは、アキラ氏に会う用事がある時か、偶に訪れた日本人客からの要請が有った時かのほんの数回程度でしかありませんでした。
(それまでは、週4日は通っていたのに・・・・。)

2月4日のこの日は、一年に一度の私の大きな任務である、応援団員の皆様から拠出頂いた応援基金のお金を、アキラ氏に直接届ける日でした。
 我が家から博物館までは距離が20数キロあるので、以前は慣れていてそれ程苦に感じなかった道程が、偶に行くとなるとエライ遠く感じる様になっていました。
ですから、コロナ以降に博物館に行った数回は、全て妻の運転する車で送って行って貰っていたのですが、この日は妻の都合が付かず、久しぶりに一人でバイクで行く事になりました。
朝10時に博物館でアキラ氏に会い、応援基金のお金を手渡して、HPに載せる為の写真を写し、少し話した後直ぐに帰途に就きました。
11時には子供を小学校に迎えに行かなければならなかったので、それ程ゆっくりしておれなかったのです。
 プラダック村に入った時、まだ10時半だったので、慌てなくても十分お迎え時間に間に合うなと思ったところまではハッキリ覚えています。

ところが・・・その後の記憶がありません。

事故の前後の記憶が吹っ飛んでしまい、どの場所でどんな事故を起こしたのか全く覚えていないのです。
 カンボジアに住み始めて2年後の2013年に起こしたバイク事故の時も前後の記憶を喪失したので、私の場合これが初めてではありませんが、大学生の時に起こしたバイク事故の時は、気を失う直前までの事を鮮明に覚えていますので、年を取ってからこんな体質になった様です、ハハハ。
(って、どれだけ事故ってるんだっちゅう話ですが。)
覚醒した時には救急車の中で、そのままシェムリアップの州立病院に担ぎ込まれてしまいました。
 後から聞いたところによりますと、このプラダック村で転倒事故を起こして気を失い、近所の人が救急車を呼んでくれた様です。
 病院には直ぐに妻と妻の姉が駆けつけてくれ、その後ずっと付きっ切りで看病してくれました。
恐らく救急車の中で、自分の携帯で妻の電話番号を示し、誰かに電話して貰ったものと思われます。
 これも後から事故ったバイクを保管してくれていたプラダック村の警察署に、バイクを取りに行った時に聞いたのですが、事故はあくまで単独であって、デコボコになった道でハンドルを取られて転倒したのだろうとの事でした。
   プラダック村から博物館に続く道は、4年前の2019年末に1年位掛けて補修工事が行われ綺麗になっていたのですが、数ヶ月したらもうあちこち穴だらけになっていました。
(カンボジアの舗装工事は、原材料をケチっているのかこんなのが多いです。)
昔の様にしょっちゅう走っていたら、何処が危ないかは頭に入っているのですが、この時は本当に久しぶりだったので、道(ミチ)の状態は全くもって未知(ミチ)でした。(ここは、笑って下さい。)
時間に余裕があったので、決して飛ばしてはいなかった(数年前迄は熟年暴走族だったのですが、2018年に結婚してからは守るべきものが出来たので決して飛ばさなくなり、この時もゆっくり走っていました)のですが、手に大きめの封筒を持っており片手運転だった様に思います。
そんな中、突然目の前に大きな穴が出現し、咄嗟に避けようとして転んだのではないかと推察しますが、ホントのところは分かりません。何せ記憶が綺麗さっぱり消え去っているのですから。

病院でCT検査やレントゲン検査を受け、ろっ骨が3本折れていると言われました。加えて肩の骨がどうのこうの、頭と胸に血が溜まっているだのと言われましたが、何せ通訳してくれたのが医療関係者では無かったので、詳細が分からないまま20日程入院しました。(州立病院は2日間だけで、その後、親戚の勧めでより設備の整ったプノンペンの病院に転院しました。)
 2月下旬、とりあえず退院しましたが、右腕は痛いわ、歩行はままならないわ、起き上がった時に目が廻るわでホントにボロボロの状態でした。

しかし、今回の事故とは関係なく、前々から3月には家族を連れて日本に一時帰国する予定だったので、飛行機に長時間乗る事に不安はありましたが敢えて決行し、日本の地を踏みました。そして、岡山の私の実家に到着後直ぐに外科と脳神経外科の病院を受診したところ、衝撃の診断結果が告げられました。
ろっ骨5本の骨折、鎖骨の骨折、肩甲骨2箇所の複雑骨折、頭蓋骨にひびが入っていて、硬膜下血腫が出来ていると。
 ガビーン、そんなに重症だったのかと、頭がクラクラして来ました。(事故以降、頭は絶えずクラクラしていましたが・・・ええかげんにせえよ、こんな冗談を言っている場合ではありません)
よく生きていたなあ、ヘルメットを被っていなかったらヤバかったかもと改めて恐怖に震える思いでした。
 頭の硬膜下血腫は、血が止まらずに血腫が更に大きくなる様であれば、血を抜く手術をしなければならないが、暫く様子を見よう、骨折の方は、手術をせずに放っておこう(?)という話になりました。
外傷はほとんで無いので、見た目には事故前と何ら変わりなく、こんな重症だったとは誰も思いません。

日本に約1ヶ月滞在し、その後クメール正月前にカンボジアに戻って来て、家にて療養を続けていますが、硬膜下血腫の方は大分良くなっているものの、4ヶ月経過した今でも未だ右腕の痛みはかなり強く残っていて上に上がらず、日常生活に不自由を強いられています。家に籠もりっきりですので、気が滅入るばかりです。

カンボジアのお寺で何度目かの厄払いを受け、改めて思いました。
事故はもうコリゴリ、何としてもこれで打ち止めにしたいと。

皆さんも、くれぐれもお気を付け下さい。命あっての物種です。

 

 

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